介護労働の現場から〈12〉自立する利用者

介護労働の現場から〈12〉
2014年4月3日

自立する利用者

介護施設という場所は、労働者にとっては職場である。ケアプランに沿ったサービスを労働者が提供する仕事場である。
しかし、入居の高齢者にとっては仮の場所ではなく、生活の拠点。他に行くところもない。所持品も最小限に制限され、日々、時間も行動も、指示され管理される。

利用者の家族は、さまざまな事情があるだろうが、つまりは自分の生活を守るために、施設に高齢者を預ける。数日だけだからと騙して連れてくることも多い。だまされたと気付き、声が枯れるまで抵抗していた人も、だいたい3日から1週間である程度落ち着く。
そして、入居後の誕生日、敬老の日、母の日、正月……どれだけの家族が面会にくるだろう。次第に入居者のまなざしは、死んだ魚のように動かなくなる。

シーズンが替わり、季節にあった衣類が必要になり、スタッフが家族に連絡を取っても、衣類を持ってこない。毎日使うオムツやパットも届かない。どうしようもなくなって、バーゲン品の衣類や下着を、安月給の中から自前で買ってくるスタッフもいる。
「自分の母親だと思えば、ほっておけない」と言う。スタッフがまるで家族のように情緒的にコミットしてしまう。しかし、それは利用者への虐待の感情と紙一重だ。虐待は憎いから起きているわけではない。介護してあげているという思い上がりから起きる。

介護をする側がいくら尽くそうと、家族や地域から離れさびしい気持ちでいっぱいの利用者の内面は空っぽで無反応。食事・風呂・トイレなんかどうでもいい。でも、労働者として提供できるのは、食事、風呂、トイレ……だけ。
「ルーティンワークが独り歩きしているというか、自己目的化してしまっている」と、私は管理者に言った。
体育会系というのは、やっぱ理解できない。「メシ食わせて風呂入れてナンボだから、認知がきつかろうとやらなきゃいけない」
「メシ・風呂をすんなりやってもらうために、あの空間を利用者に開放するのよ。私たちの仕事場ではなく、彼女たちの住み家で、やることには彼女なりの論理とストーリーがある。それに従えばケアではないケアができる。お互いストレスがたまらない」
高齢者は家族と離されたなら、1人の強い個人として生きていくべきだ。そして、介護する側とされる側は、疑似家族ではなく、サービスのやりとりを通して対等であるべきだ。そのために、まず利用者に「自立」してもらおう。人生の最終段階を自立して歩んでほしい。それが介護の目標だ。

「利用者は自立しよう。できないことが多くて、なんでも忘れてしまうけど、自分でこの狭い施設で社会的存在として生きていく。私らに依存しちゃいけない」

管理者は、酔いのためか、「それいいね」と言ったので、私は次の日から実行することにした。家族からもケアワーカーからも自立する高齢者。いい職場になりそうだ。
(あらかん)
(ちば合同労組ニュース44号から)