春闘の歴史と経団連経労委報告
国鉄・私鉄で全国規模のスト闘った時期も
経団連は1月21日、「25年版経営労働政策特別委員会報告」を発表した。報告は、経団連が毎年1月、春闘を前に作成し、各企業が労働組合と交渉する際の参考資料として出す財界の「春闘方針」だ。
春闘のはじまり
「春闘」は、大半が企業別に組織されている日本の労働組合が新年度となる4月に向けて、産別・労組を超えて一斉に賃上げ要求と交渉、ストを実施する総評時代に始まった運動だ。
当時の太田薫議長が「闇夜にお手てをつないで」と呼びかけて1955年に、炭労・私鉄総連・合化労連・全国金属、紙パ労連・電産・化学同盟、電機労連の8労組で始まった。
翌年56年から総評全体の運動となり、さらに中立労連や同盟傘下の主要組合も加わり春闘共闘委員会が作られた。
春闘が活発に闘われた60年代~70年代前半では、好況企業の労組がトップバッターで交渉を行い、賃上げ相場を形成。そして私鉄総連と公労協による公共交通機関のストが全国規模で実施され、中労委や公労委の裁定などを経て賃上げ相場を確定させ、それを公共企業体部門にも波及させる戦術だった。
64年には太田総評議長と池田首相の会談で「(公務員の)民間賃金準拠原則」を確認。民間企業の賃上げ相場は公務員賃金に波及し、また最低賃金にも影響を与え、中小企業や非正規労働者にも影響した面もある。だがストなど戦闘的に闘われた半面、経済成長を前提とした「体制内的な」運動だった。

生産性3原則
政府や財界は55年に「日本生産性本部」を設立し、〝生産性3原則〟を提唱した。
それは、①生産性向上(合理化攻撃)により生じる余剰人員は解雇ではなく配置転換によって対処する、②生産性向上の具体的手段は労使で協議する、③生産性向上の成果は企業・労働者・消費者間で公正に分配する――というものだった。
60年の三池闘争など激しい闘いを展開しながらも多数派の運動は生産性3原則に踏まえた労使関係の確立に向かい現在の連合につながる道が開かれていった。他方、3公社5現業(国鉄や電電公社など)などの公共部門では70年代も戦闘的に闘いを展開・継続していった。
石油危機などによって生じた物価の急上昇(20%)に対して大幅賃上げを要求、スト攻勢で32・9%の賃上げを実現した。政府や財界は危機感を募らせ、日経連は「大幅賃上げの行方研究委員会」を作って対応策を検討、「75年は15%以下、76年は1桁」とのガイドポストを示した。報告書は6万8千部以上が発行され、企業役員などに配布された。これが現在の経労委報告の始まりだ(48冊目)。
74年のスト権ストの敗北や80年代の電電公社、専売公社、国鉄の民営化攻撃などを経て春闘は大きく変容していった。85年以降、日本におけるスト件数は激減。それでも80年代はそれなりの賃上げが行われた。
しかしバブルが崩壊した90年代以降、春闘は賃上げをほとんど実現できない状況に陥り、賃金・雇用の破壊が劇的に進んだ。非正規労働者が雇用労働者の3分の1を超え、若者の失業(就職氷河期)が深刻化した。
95年、日経連が「新時代の『日本的経営』報告を発表。「日本的経営」の核心として雇用・賃金を焦点化し、①終身雇用、②年功賃金、③企業別労働組合の解体を打ち出した。
労働者を「長期蓄積能力活用型」「高度専門能力活用型」「雇用柔軟型」に分け、9割の労働者を非正規雇用に突き落とす「雇用のポートフォリオ(組み合わせ)」体制の構築を提言した。この時期からストなし春闘、ベアゼロ春闘が長期に続いた。
近年の春闘動向
02年春闘の直前に出された日経連最後の「労働問題研究会報告」は「円高下の国際競争力維持のためこれ以上の賃上げは論外」と主張した。
そしてベア千円を要求したトヨタ労組に対し、当時の奥田碩会長が「いつまで百円玉の争いをしている」と一喝し、1兆円の利益を上げていたトヨタがベアゼロとなった。その映像がネットで配信され、数年間賃上げ要求を行わない「春闘」が続く。この過程で日本の労働者の賃金は大きく減少していった。
そうした状況の中で第2次安倍政権が誕生し、安倍首相は経済3団体に対して賃上げを求めた。「経済の好循環に向けた労使会議」を設置し、「官製春闘」が始まっていく。
この後の新型コロナやウクライナ戦争などを契機とする物価上昇などで春闘の状況が変わっていく。23年、24年の春闘が社会的な焦点となったのはご承知の通り。
ちば合同労組ニュース 第176号 2025年3月1日発行より