核兵器と人類は絶対に相容れない  核共有や持ち込み主張する石破首相

主張
核兵器と人類は絶対に相容れない
核共有や持ち込み主張する石破首相
 日本被団協へのノーベル平和賞が決まった。日本被団協は1956年に結成された原爆被爆者の全国組織。
 2発の原発で、1945年末までに広島で14万人、長崎で7万人以上が亡くなった。
しかしGHQのプレスコードで原爆に関する報道が禁止され、被爆者はなんの国の救済もないまま放置された。
 54年3月、太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁で米国が水爆実験を行い日本のマグロ漁船「第5福竜丸」が被曝。この事件をきっかけに原水爆禁止を求める東京都杉並区の署名運動が全国に広がった。
 55年8月6日に、初の原水爆禁止世界大会が広島市で開かれ、翌年に長崎市で第2回大会が開かれた。長崎の被爆者女性数人が「原爆乙女の会」を旗揚げし、やがて結成されたのが被団協だった。
 55年4月、広島と長崎の被爆者5人が日本政府に賠償を求めて提訴。2年後、ようやく「原爆医療法」が施行され、一部の被爆者に対し医療給付などが始まった。被曝から実に12年後のことだ。被爆者健康手帳を持つ人は80年頃で約37万人、いまも10万人を超える被爆者が存命だ。
許せぬ核抑止の肯定
 現在、イスラエル閣僚が核使用を公然と示唆し、プーチン政権も核兵器の威嚇を繰り返す。他方で、昨年のG7サミットではゼレンスキーが招待され、岸田首相が核抑止を全面肯定する「広島ビジョン」を発表し、多くの被爆者が落胆と怒りを表明した。
 石破首相は「米国の核シェア(共有)や核の持ち込みを具体的に検討せねばならない」と主張する。日本政府は核兵器禁止条約のオブザーバー参加さえ拒否している。
 ノーベル平和賞をめぐる国際政治や思惑はなんであれ、核兵器と人類は絶対に相容いれない。そして、すべての核兵器廃絶を訴える被爆者の存在は誰も無視できない。
何度も核戦争の危機
 戦後、核兵器使用の危機は何度もあった。朝鮮戦争では中国軍の参戦で米軍は敗走を強いられた。マッカーサーは「30~50発の原爆を満州に投下すれば10日以内に勝利できる」と本気で考えていた。沖縄の嘉手納基地には核兵器が集結していた。結果的にマッカーサーは解任され、原爆使用はなかった。
 その後、核軍拡競争は激化し、一時期は7万発以上の核弾頭が製造され、今日も1万発以上が存在する。
 米ソ両国は先制核攻撃を受けても反撃できる核戦力を持つ「相互確証破壊」戦略を採用。いわば「恐怖の均衡」で核兵器の使用が抑止されると主張し、果てしない核軍拡競争と予想の付かない戦争の危機を高めた。
 結果として核戦争が生じなかったのは偶然の産物だ。例えば62年のキューバ危機で米ソは核戦争の瀬戸際まで行った。よく知られた歴史だ。
 いや事実はもっと深刻だった。キューバ付近に潜航中のソ連潜水艦はモスクワとの連絡が途絶え、艦長は米ソの全面核戦争が始まったと判断、核魚雷の発射を準備した。しかし副艦長らの説得で海上に浮上しことなきを得たのだ。
 ベトナム戦争でもニクソン政権は戦術核の使用を一貫して検討。本当に使われていれば沖縄に配備されていた核兵器が使われた可能性が高い。