再開発が進む千葉駅周辺 ローカル線切り捨てと一体で地域衰退を加速

その他

再開発が進む千葉駅周辺 ローカル線切り捨てと一体で地域衰退を加速

 近年、建物の老朽化や新幹線開通による駅舎の建て替えを契機に商業施設やオフィス、ホテルなどの機能を融合して建設された巨大な駅ビルが全国で建設されている。
 デベロッパーとして巨大な駅ビルを建設しテナントに商売させるスタイルだ。駅周辺は繁栄しても地域全体は寂れる。駅ビルに入った百貨店は売り上げを伸ばすが、既存の周辺デパートの淘汰が進む。
 千葉駅は2011年から大規模な改修工事が始まり16年に新駅舎が完成、駅ナカも新設された。17年に駅ビル「ペリエ千葉」がオープン。ペリエの延べ床面積は従前の2・5倍に広がり、1階に300席のフードコート。テナントも250店舗以上ある。
 東口の駅前広場・ロータリー周辺の再開発も進み、複合ビルが次々と建設されている。ヨドバシの隣にビックカメラが出店するとのこと。
 西口にはペデストリアンデッキ(高架歩道)ができ、そごう隣のJR千葉支社跡地には市民会館と商業施設やホテルが入る複合ビルの開発計画が先日報じられた。
 ペリエを運営する「株式会社千葉ステーションビル」は駅ビルや駅ナカの商業施設を運営している。20年12月から京葉線の海浜幕張駅や検見川浜駅、稲毛海岸駅の3駅の運営をJR東日本から受託している。

繁華街は衰退

(写真 かつての千葉駅ビル)

 もともと千葉市街の中心は現在の中央公園から県庁にかけてのエリアだった。旧国鉄千葉駅は現在の千葉市民会館の横にあり、京成千葉駅は現在の中央公園にあった。栄町から県庁前まで南北に中心市街地が形成されてきた。
 しかし、戦争で焼け野原となり、戦後の復興計画で千葉駅は1963年に現在の位置へ移転した。それでも90年代初頭までは銀座通り周辺にパルコや扇屋ジャスコ、セントラルプラザ(奈良屋)、十字屋などの大型商業施設が立ち並んでいたが、次第に千葉駅周辺に人の流れは移った。
 2016年に40年の歴史を持つパルコが業績低迷で閉店。翌年、三越も閉店した。跡地には下層に大型スーパーや商業施設が入る巨大分譲マンションが建設される。
 JR東日本による直通運転の廃止―途中駅での系統分離、ワンマン化や特急廃止で房総半島エリアから千葉駅までのアクセス利便性は悪化の一途だ。こうして関東有数の繁華街はその範囲も人出も大きく衰退した。県庁所在地としては異例のスピードで街の空洞化が進んだ。
 ペリエは「富裕層」向けの高級・ハイブランドが中心で駅を使う学生や若者の集客には疑問符も。高級感はあっても個性や地域性はない。郊外型ショッピングモールと同様、景観を均一化し、地域の独自性を失わせている。

千葉駅の歴史

 1894年に私鉄の総武鉄道が市川~佐倉間で開業し、最初の千葉駅ができた。佐倉駅が東端なのは、明治初期の1873年に最初の歩兵連隊が佐倉に配置されたからだ。
 日清戦争で、鉄道が軍事輸送に役立つことが認識されると、陸軍は全国の鉄道敷設を推進し、鉄道連隊が千葉市や津田沼に編成された。
 1907年に総武鉄道は国鉄に組み込まれ総武本線となった。翌08年には現在の国立病院機構千葉医療センターが陸軍病院として開設され、その隣に鉄道第一連隊が設置された。
 鉄道連隊は23年に千葉陸軍兵器補給廠へ発展。千葉駅周辺には軍事施設が集中し、人口も増加。21年に市制が施行され、大正末期から昭和初期に軍都として発展していった。関東大震災後、千葉の軍事施設はさらに強化された。
 千葉には空軍施設も集められ、気球連隊や陸軍防空学校も開設。稲毛海岸には航空場が建設され国産飛行機の製作やパイロット育成も。
 鉄道事業では京成電鉄と総武線の競争があり、1932年に総武本線は御茶ノ水駅まで延伸し、総武線から中央線方面に移動できるようになり利用客が増えた。
 旧千葉駅は、東京方面から走ってきた総武本線の列車が内房・外房線に入るにはY字に折り返す必要があり、時間がかかり運転本数を増やすことが難しかった。このため現在地に千葉駅が移転した。
 同時期に川崎製鉄の誘致や千葉港の整備も進み、海岸線は埋め立てられ工業化が進んだ。貨物専用線として京葉線が開通、やがて西船橋から千葉港まで旅客列車が運行され、沿線の宅地化が進んだ。
 さらに幕張新都心の開発などが70年代後半から始まり、89年にはメッセが開業。88年にモノレールも開業。(S)

 ちば合同労組ニュース 第144号 2022年7月1日発行より