相模原・障害者殺傷事件に思う

相模原・障害者殺傷事件に思う

〝労働者には団結が必要〟

相模原市の障害者施設で45人の障害者が殺傷される、痛ましい事件が起きた。事件の背後にある障害者抹殺思想の不気味な広がりや、現代社会のあり方への危惧は、多くの識者が指摘しているが、労働組合の立場から考えたい。
事件のあった「津久井やまゆり園」は、もともと県立だったが2005年から指定管理者制度に移行し、民営化された。その結果、求人情報では夜間時給が905円、これは神奈川県の最低賃金と同額。深夜割増も不払いの情報も。ブラック企業そのものだ。
利潤追求、費用対効果が求められ、それが評価される競争社会、過酷なブラック職場の現状が26歳の元職員の背後にあるのは間違いない。
2000年に介護保険法が制定される過程でも「社会的入院を減らす」と言われたが、〈高齢者が税金を無駄遣いしている。だから民営化して市場原理でやっていく〉――そういう考えが根本にあった。
今回の事件は現代社会の縮図であり、資本主義のパラダイムが個々の人間性をとらえ、ゆがんだ形で現れているように感じる。

昔は道徳観念の規範として「強きをくじき弱きを助く」がそれなりに普遍的に人びとの心にあったが、いつの間にか「弱きをくじき強きにおもねる」「長いものには巻かれろ」といった価値観に逆転してしまった。どこで転倒してしまったのだろうか。
そもそも資本主義社会は、労働力を商品として、つまり人間をモノとして扱い、ひたすら利潤を追求することを原動力とする社会制度である。労働力がなくなるのは困るがその担い手である労働者の生活には興味ない。むしろ労働者同士が賃金をめぐって競争する方が望ましく、だから労働者を殺さず生かさずの状態に置いておこうとする。
しかし労働者の側も黙ってはおらず、団結して資本と闘い、長い時間をかけて8時間労働制や、医療・年金・教育などの社会保障制度をかち取ってきた。
資本主義の社会様式と、人間らしく生きようとする労働者階級との拮抗する激突のただ中にあるのが現代社会である。一度獲得した諸権利の上にあぐらをかいていれば、すぐにまた引っくり返される。

高度経済成長期を経て日本の労働運動は徐々に力を失っていった。1987年の国鉄分割・民営化から本格化した新自由主義政策が現在を規定している。非正規・低賃金・人員削減がはびこり、競争が煽られ評価制度で労働者同士が密告しあう。

資本主義が極限的に推し進められれば、社会保障は解体され、労働者は生きていけなくなる。しかし資本主義の自己運動は自制する術を持たない。恐慌を繰り返し、戦争に行き着く。
社会のあり方が人々の価値観に影響を与えるのなら、その逆もしかり。もう一度労働者が団結して、人間らしく生きさせろと立ち上がれば、やがては社会のあり方を変革できる。一人ひとりが現代社会の分岐点で選択を求められている。
私も介護施設で働く。閉ざされた空間にたくさんのお年寄りが押し込まれ、やりたいこともできずに1日無気力に座って過しているのを見ると、自分の仕事は、高齢者を「効率よく(お金をかけずに)」死なせてやることかと絶望感に苛まれることもある。
職員も利用者も共に生きた人間だ。仕事と割り切って〝こなし介護〟だけにはいかない。愛憎悲喜交々である。ときに虐待の誘惑に駆られるし、ときにはちょっとした言葉や笑顔に救われる。みんなまだ生きた人間だ。

共に生きていく社会を守るために何よりも必要なのは、労働者の団結だ。仕事の大変さや責任、そして誇りを共有し、教えてくれる仲間。個々の労働者には思いや誇りがある。だけど声を大に「俺たちが職場を動かしている」と言う人間がいなければ、その思いも誇りも資本のものになりねじ曲げられる。(A)

ちば合同労組ニュース 第73号(2016年8月1日発行)より