連載・介護労働の現場から〈働き方編〉 出発

連載・介護労働の現場から

連載・介護労働の現場から 〈働き方編〉

今号より『介護労働の現場から』パート2〈働き方編〉を開始します。筆者は前シリーズと同じく「あらかん」さんです。

「これ以上、働けない」からの出発

私が介護の仕事を始めた4年前と現在とは、介護労働に携わる人がずいぶん様変わりしていると感じる。
いわゆるオバヘルといわれていた中高年女性はかなり減り、施設介護などは異業種から転職してきた30代~50代の人が中心になってきたように思う。
他の業界を経験しているから、給料は少ないまでも、休憩なしやサービス残業はおかしいと考えるきわめて常識的な人が増えた。
経営者側も異業種大手の参入で、教育研修や人事評価制度は整ってきた。だからといって、決して労働環境や条件が良くなったわけではなく、労働者をこんなに安くこき使えるから介護に参入してくるのだ。
一方、利用者側も、介護を消費者としてサービスの質を吟味するようになってきた。介護保険施行から16年。人びとは、介護は金で買うもの、金がなければ、介護してもらえないとごく普通に思うようになってきている。何のための保険制度か。
そして、介護業界だけでなく、メーカーからサービス業まで諸々の企業は、高齢者増加で潤っている。そういう流れのなかで、金のない高齢者と介護労働者は、すっかり置き去りにされているのだ。
また、施設での虐待や放置事件が大きく取り上げられるようになり、若者はますます介護に参入してこなくなった。離職して他の仕事に就く(燃え尽き症候群)働き盛りの人材流出も止まらず、介護の質は落ちる一方だ。

最近、ある工事現場で〈安全優先・過重労働禁止〉というスローガンが掲示されているのを見て軽いショックを受けた。介護の現場では経営側だけでなく労働者の間でも、そのような共通認識すらないのだ。「これ以上働いたら、自分がこわれてしまうか、虐待してしまいそう」と、お互い愚痴ることすらない分断され孤立している介護現場。
なんで? なんで? なんで?
介護現場にいるのは労働者なんだよ。奴隷工場みたいに誰かが見張っているわけではなく、現場には労働者しかいない。だから仕事が目いっぱいで業務がこなせない日は、労働者の判断で次の日にやればいいではないか。
私の職場では最近、一日中徘徊している利用者に人手をとられて、予定していた4名の入浴が難しくなった。「今日は入浴なし」と誰彼ともなく言い、みんなで入浴は中止にした。一種のサボタージュだが、それでいいではないか、「過重労働禁止!」。
次の日、管理者から事情聴取されたが、できないものはできない。私たちはモノではなく人間を相手にしているのだ。人を増やしてもらわなければ、まともな介護はできない。

介護の中心は高齢者と私たち介護労働者だ。それを周辺化する相手とは、雇い主といえどガチンコ勝負だ。すでにいっぱいいっぱい、これ以上働ければ、より弱い高齢者に矛先が向いて、虐待や放置をしてしまうかもしれない。
だからこれ以上働けないとみんなが口々にいった。それでも、できないというものをやれというなら、経営側に説明責任がある。結果、一人増員されることになった。
n0072_03_01a 介護労働の問題は、国の政策と結びついている。まだ経過観察が必要な患者がどんどん病院から施設に送り込まれてくる。一方、個別ケアを押しつけられているので、流れ作業的介護に罪悪感を持つ日々だ。介護労働は経営者を追い詰めても抜本的解決にならないことは百も承知で、それでも虐待に手を染める前に、燃え尽きる前に、一ミリのゆとりをもって労働者自身が「働き方」について考えてみたいと思った。
労働内容を精査し、働きやすく、利用者にとっていいように労働者が変えていく。つまり働き方を変えるのだ。それは、たった一人でも始められる。

「介護労働の現場から」パートⅠが以前の私の経験なら、これからのパートⅡは働き方編、働きやすい介護職場にするための考え方やその攻略を書いてみたいと思っている。それらは、4度の転職のおかげで多様な現役介護労働者から得た知恵も多く含まれる。介護労働の現場が働きやすい職場になることを願って新たな連載を始めたい。
私自身難しい課題ですが、ひきつづき、ご愛読をよろしくお願いいたします。
(介護福祉士・あらかん)

ちば合同労組ニュース 第72号(2016年7月1日発行)より