内房線は1912年に「木更津線」として蘇我〜姉ヶ崎間で開通。木更津や南房総から東京へは当時、利便性の高い船便があったため鉄道の敷設は遅れた。19年には館山駅まで開通したが、当時は北条駅と呼ばれたため「北条線」と命名された。路線は海岸線沿いを走りトンネルが多い。車窓から東京湾越しに三浦半島や富士山が綺麗に見えるが、戦争中は「軍事機密を保持するためブラインドを降ろせ」と命じられた歴史も。全線開通で「房総西線」となり、戦後しばらくは蒸気機関車が走っていたが、その後、国鉄は房総地区をディーゼル化(無煙化)のモデル地区に指定した。
房総といえば、大正時代から戦後の一時期まで続いた海水浴ブームが有名だ。最盛期には房総の夏ダイヤが市販の時刻表に別刷りで掲載されるほどの賑わいを見せた。しかし、80年代に入ると、レジャーの多様化や自家用車の普及によって鉄道利用は減少していった。
60年代後半、北九州市にあった八幡製鉄所が君津へ移転してきた。50年代からの千葉市の埋め立て(川崎製鉄)が、五井・市原地区の石油化学コンビナート、さらには君津・富津へ展開した。鹿野山を削って海を埋め立て、削った後の山地は住宅地になり約2万人が一度に君津に移動、「民族大移動」と呼ばれた。君津には九州文化が流入、今も長浜ラーメンが根付く。一方、豊かな海苔漁場だった海は漁業権の放棄などを迫られ、公害問題や自然破壊(干潟の消失)も。埋立地面積は実に東京ドーム220個分に相当する。こうして内房線沿線は小さな農漁村から巨大な工業地帯へと変貌を遂げた。

ちば合同労組ニュース 第192号 2026年7月1日発行より

