実践的に考える職場と労働法/社会保障制度の歴史を考える・下

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実践的に考える職場と労働法実践的に考える職場と労働法

給付抑制や国庫負担削減を主導した第2臨調

社会保障制度の歴史を考える・下

(前号からの続き)
 「昭和」初期になると27年金融恐慌から29年世界大恐慌となり、やがて日本は全面的な戦争に突入していった。この時期に大量の生活困窮者が発生するようになり、本格的な救護法が1929年に制定された。
 2・26事件(36年)や盧溝橋事件(37年)などを経て38年、国家総動員法が敷かれ日本は戦争国家体制に突入した。しかし、皮肉にも実はこの過程においてこそ、強兵政策の一環として社会保障政策が強化されたのだ。
 農村の疲弊や餓死、母子心中などが大きな社会問題となり、農村部の医療費対策として1938年に健康保険法が制定された。市町村単位で健康保険組合を設立する方式で、当時は強制保険ではなく、設立には一部にとどまり、実際に本格的に設立されるのは戦後に入ってからだった。
 一般の労働者を対象にした年金制度は、戦争中の41年に労働者年金保険法として創設された。さらに44年に厚生年金保険法が制定された。一面において戦争が社会保障の発展の基礎の枠組みをつくったのだ。

国民皆保険・年金

 日本の敗戦直後、1946年にまず(旧)生活保護法が制定された。47年には児童福祉法、49年には身体障害者福祉法、50年には(新)生活保護法が制定され、いわゆる「福祉三法体制」が整えられた。
 1947年には、保健所法、食品衛生法が、翌48年には予防接種法、薬事法、医師法、医療法など重要な法律が制定された。同年、厚生省から分離独立する形で労働省が設立され、労働基準法、労働者災害保障保険法、職業安定法、失業保険法などの労働法が制定された。
 社会保険に関しては、戦後のインフレで有名無実になっていた厚生年金制度が見直され、54年に新たな厚生年金保険法が制定された。
 戦後復興が進み、56年の『経済白書』は「もはや戦後ではない」と語り、他方で同年の『厚生白書』は「果たして戦後は終わったか」と述べる状況だった。
 58年に国民健康保険法が改定されて、「国民皆保険」への移行を決める。年金についても59年に国民年金法が制定され、「国民皆保険」「国民皆年金」が始まる。
 1960年頃からハッキリと高度経済成長が始まり、国民皆保険・国民皆年金は税収や社会保険料の高い伸びにも支えられて給付水準の大幅な改善が続いた。73年に医療保険では被用者保険の扶養家族の給付率が5割から7割へ引き上げられ(窓口負担3割に)、老人医療費の無料化が全国で始まり、高額療養費制度が創設された。この年は「福祉元年」と呼ばれた。

80年代第2臨調

 だが、奇しくもこの年にオイルショックが起きる。世界経済は大混乱し、日本の経済成長もストップがかかる。景気後退と激しいインフレが日本社会を襲い、さらに高齢化率がこの時期に7%を超え、世界最速の高齢化社会への突入が明らかとなる。
 1979年に一般消費税導入を掲げた自民党が選挙で大敗し、増税による財政再建が困難になる。そういう中で新自由主義の導入が試みられる。80年代は「増税なき財政再建」を主張し、社会保障についても給付の抑制や国庫負担の削減などの見直しが始まった。中心的な役割をなったのが「第二次臨時行政調査会」だった。
 その後、平成の時代に入って、経済の低成長と少子高齢化の問題の調整が大きな課題となっていく。他方で日本の金融システムは巨額の不良債権を抱え、政府も巨額の財政赤字で政策の幅が狭まっていく状況が続いた。政治的にも「55年体制」が崩壊します。
 社会保障制度では2000年から介護保険制度が始まる。小泉政権の「聖域なき構造改革」などを経て、08年にリーマンショックが起きる。

社会保障の危機とは

 社会保障制度は、世界の歴史が資本主義の時代に入ったことが背景にあり、資本主義社会の維持のための必要性と、労働者の生きるための要求と闘いを契機として、そして実際の歴史過程としては世界大恐慌と世界戦争を大きな契機に発展・展開してきたと言えます。
 〈現代世界における社会保障制度の危機〉という問題をそういう視程で考える必要はある。
 コロナ感染症や各地の戦争、インフレやエネルギー危機、貧富の拡大や社会保障制度の危機など非常に閉塞的で危機的な状況が続く。各国で労働者の分断も生じています。こういう状況の中で、どのように未来を展望していくのかが課題だ。

 ちば合同労組ニュース 第162号 2024年01月1日発行より